第91回「数字」

第91回 探究型学習コース実施!
今回は「数字」をテーマに深く考え皆で話し合ってまいりました!
 
【アイスブレイク】
・自己紹介
・プチトーク「あなたが沢山持っているもの」
今回のテーマ「数字」に関連し、“たくさん”(=数えないと認識できない量)持っているものについて各自お話いただきました!
 
 
【インプット】
深く考え皆で話し合っていくために、まずは以下の事項を皆で共有しました!
 
〇世界各国に数字を表す表現があります
・日本語は10進数
・英語で「2100」は「(2×10+1)×100」
・フランス語で「99」は「4×20+10+9」
・フリ語(パプアニューギニア)で「100」は「(15×6)+(7番目の15の10)」
 
〇コンピュータの計算では0と1のみを使用しすべての数字を表現している⇒2進数
 
〇昔の人が発見した(使っていた)数の例
・自然数(エジプト)
・単位分数(エジプト)
・負の数(中国)
・0(インド)
 
〇なぜアラビア数字が使われるのか
⇒「0」を並べて桁を表現し、長さ(サイズ)で大きさを表せるから(超便利!)
 
〇生後5か月の赤ちゃんは、3までの数の足し算引き算を理解する
⇒と、実験結果がある
 
〇数える概念(数)を持たない文化もある(アマゾンに住むピダハンなど)
⇒彼らは4以上の数量を認識することが難しい(する必要のない暮らしを送っている)
>>日本語は数え方、難しいといいますよね(海外の方への日本語教育などでよく言われているような。)
>>基本単位からの加減で表現しているのですよね>フレンチ
>>ゼロ+繰り上がりのシステムって超スゴイ!
>>もしかしたら、「必要ない」のかもしれませんね。。。>パプアの人
>>おもしろい…
>>中国だと、血縁を示す単語が多いのですが、(父方のひいひいひいじいちゃん、とか)これって日本の人には殆ど必要ないですもんねえ。。。
>>なるほど、、
>>その国の文化によって、重要なもの、重要でないもの、ありますものねぇ
>>そうそう、”持っている人”が”持たない人”を不便だというのは『自分のルールの中では』という但し書きがついているのですよね。
>>1,2、いっぱいな世界って楽しい気がします…?
 
 
【問いかけ】
もしも数字が使えなくなったら?
※身の回りの認識、自分の生活、はたまた社会全体など、どんなスケールで考えてもOK!
 
 
【探究】
ーーー
〇計算しても表記ができない。
〇意思疎通ができない。
〇計算機がない。PCが存在しない。
〇数学に悩まされなくなる人が出てくる。
〇平均、最低点、最高点の概念がなくなる。
〇日程調整ができない。
〇定量的な議論ができない。
ーーー
数字が使えなくなったら、、、
〇お金が計算できない
〇電話番号がなくなる
〇人口が統計できない
思いつくことを挙げてみても、数字に関連しないものって存在しない気がする。ということで自力ではいいアイデアが思い浮かばなかった。ので、調べました。
「数字のない」で検索すると、
「数字のないトランプ」
「数字のない世界」
「数字のない仕事」
と出てきました(笑)
 
〇ノノトランプ
・数字のないトランプ
・遊び方⇒大富豪
カードには、「少し」とか「ちょっと」などの副詞が書かれているそうで、カードの強弱は、主観で決まるらしいです(笑)
 
〇数字を持たない民族に世界はどう見えるのか?
(人類学者が語る~)
※記事はダイエットの話で展開されていましたが・・・(笑)
ピダハンという民族の話。
・数字がない、計算がない、
・計算を教えてくれと言われて教えても1+1もできない。
(中略)
結論。
「実はピダハンというのは、直接経験できるものしか語らないという言語の制約を持っているのではないか?」
とのこと。
 
〇数字は、直接経験することができない。
人が9人いるとする、
実際にいる人は認識できるけど、9に置き換えたときに抽象化する・・・、
とのこと。(難しい(笑))
こっから先のダイエットとつながる話は、長かったので省略。
数字に置き換えると、抽象化されるらしいです。
おいしい体験につながりにくいと。
ちょっと説明できないので、終えます。
数字のない世界は、目に見えるものだけしか話せない世界になる。が、ある程度納得のいく考えでした。
数字は、想像を広げるのかもしれません。
>>共通記号=一般化ですね
>>心ここにあらざれば、見れども見えず、聞けども聞こえず
>>『ノノトランプ』
↑これですなー!
 
ーーー
 
〇曖昧なコミュニケーション
〇物で代用する
〇感覚が研ぎ澄まされる
〇電子機器は生まれない
〇主観しか残らない世界
〇損得の概念が生じない
>>便利なデバイス(ツール)があると、頭を使わなくなる
>>実際に数字がなかったころの羊飼いは、羊の数と石ころの数を合わせて持ち歩いていた、というのを本で読んだ記憶があります。
>>感覚を揃える
>>アイヌ話、、面白そう!
>>アイヌやイヌイットは20進数
>>何故なのでしょう?太陰暦とかなのかな。。。?
>>アイヌは発音(音)の微妙な変化で20まで表現
>>手足の指は全部で20個!
ーーー
 
〇年齢やカレンダーもない
〇手足の指の数を中心に使いながら、色々なものをみていくのだろう
〇どうやって買い物をするのだろうか、、
〇いっぱい誰かを幸せにしたら、果物がいっぱいもらえる?
〇数字がないときの良さはいっぱい考えられる!
>>物々交換
>>🐟明日取れるよって、相手を信頼させなきゃいけない
>>共通認識がないとバベルの塔みたいになっちゃう、、
 
ーーー
 
〇音楽がない(音階の概念が無くなる、楽譜が書けない)
〇比較対象が無くなり、楽しみが減る(お金、TwitterなどのSNS、YouTubeなど、)
〇競争が無くなり、平和が生まれる(8個のりんごと16個のリンゴの区別がつかない)
〇アイヌ民族は文字がないから記憶力がいい。別の感覚が研ぎ澄まされる。
〇おびえさせる武器。それがなかったら動物的な思考になっていく。(コロナで明日死んでもいいや)
〇終わりを見ることが苦手になる、効率性が低くなる。
>>リズムはどうなるのだろう、、
>>音符のない楽器の話とかも・・
>>共通記号=一般化=再現可能 ですかねぇ
>>記号=数字かどうか、の解釈だけでもご飯沢山たべれますねw
>>8個も16個も「多い」なのですね。
>>数に基づく取り合いがなくなる
>>人は一人では文化を築けない
>>よい話~!
>>アジア・日本の音楽楽器には楽譜がない
>>虹の色はいくつあるか
>>言葉が豊かになる、バランスがとれるようになる
>>逆に言うと、なぜ数字が発展したのか、と考えられる
>>1+1が2って証明するの凄く難しいですね
 
ーーー
 
【もしも数字が使えなくなったら】
 
 
忍者や職人が流行る。
*そもそも数字で管理(伝授)するのが普及してきたのは近代。
*忍者の体重は60KG(じゃないと忍者になれなかった説)
 
 
プレゼン(ディベート)術が流行る
*なんかいいOR反論ないよね、を醸成する力
 
 
文学(的表現)が流行る。
*国語は「霜寒の候」のように歳時記や季語を重点的に教えるように
(しかもビジネス文章としても機能する)
 
 
待ち合わせでイライラしなくなる。
*時間カウントできない。(太陽がてっぺんに来た頃とかに)
 
 
デジタルガジェット消滅
*二進法を人間が認知OR理解できなければ、PCは存在しない。
*紙の本を待ち合わせ用にもって出勤する営業マンが増える。
*もしくはデジタルは宗教に!?
 
 
規則正しい生活になる。
基準が”日の出”、”日の入り”等になる。
*サマータイム導入も自動でらくらく?
 
 
人を見た教育ができる。
*一日のノルマがあって、生徒に合せて休み時間をいれる授業形式に。
 
 
分け合う気持ちが芽生える。
*カウントできなければ、足りなくなることが多くなる。対策として情緒が磨かれる。
 
 
人を大切にするようになる。
*誕生日”だから”プレゼント、お彼岸だからお墓に、とかなくなる。
 
 
(自然を)畏怖し、敬意を払い、覚悟するようになる。
*暦がなければ、予測精度は超落ちる、なので、常なる備えと覚悟が定着
 
 
原発無くなる。
*虚数による原子炉管理できない。(やべえ)
 
>>触って理解できる職人
>>俵を基準として重さを揃える
>>たしかに!イライラしなくなるか!?
>>数字は苦手だったんですが、もし、なかったらと考えたら、世界観が変わるんですね。おもしろかったです。
↑よかったです~!
 
 
【ファシリテーターより】
今回もありがとうございました。ファシリテーターの木原です。
前回の「時間」に引き続き、
身の回りにある抽象的なモノシリーズ
かつ
「もしもなかったら」シリーズ
 
ということで、ある程度関連性を持ったテーマ設定をしてみました。
(もちろん、片方のみのご参加でもお楽しみいただける内容になっている、、ハズです!)
古代のエジプトや中国など、ずっと昔から人類は「数えること」をしてきました。前回の時間・暦もそうですし、物々交換をするにしても数えることは重要だったでしょう。そしてそれゆえに数量を表現するシンボルの存在もまたとても重要な役割を果たしています。
 
我々は「数えること」によって数量を認識しています。
生まれたばかりの赤ん坊(つまり数字を知らない)でも3までは足し算・引き算ができるという実験結果がある一方で、数字を持たない少数民族の方々は4以上の数量認識ができない(する必要もない)そうです。ここからも数字というシンボルの存在の重要性がうかがえます。
※リンゴが10個入った籠と、11個入った籠の違いを、数えること以外で認識することは、人間の能力では難しいということですね。
「もしも数字がなかったら(使えなかったら)」
という今回の問いは、そんな身の回りにある「数字」がいかに重要な存在であるか、学校で習う体系化された「算数」「数学」とはまた違った切り口で気づきを得たり、「数字」に苦手意識のある方にとっても見え方が変わってくる、そんなきっかけになればと思い実施してみました。
しかしながらいつものごとく、自分の予想を超えて、はるかに幅広く深い視点がたくさん出てきて、今回もたくさん学ばせていただきました。
音楽や哲学の話題が出てきたこと、手足の指は全部で20本だから、20までをベースとする文化もある、等々、多く印象に残っています。
 
参加してくださった皆様、ありがとうございました!
是非またやりましょう!
次回は第92回『人権』を予定しております。
今後もまた面白くて学びになる探究の場を実施していきますので、お楽しみに!
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