第150回「環世界 part2」

第150回 探究型ワークショップ実施!
テーマは「環世界 part2 ~人はどこまで理解しあえるか~」です!
 

本日の問い

我々は互いに、どれくらい同じものを観たり、聞いたり、感じたりしているだろうか?
またどこまで他者のことを理解できるだろうか?
 

探究

インプットセッション

〇アイスブレイク
「なってみたい人物、キャラクター、動物」
⇒3人中2人がプーチン
>>タイムリー…
 

グループトーク

人それぞれに個人差、あると思うので下手すると個々人見ている世界、聞いている世界、感じている世界は違うかもしれない?と思ったりします。
五感の能力も個々人違うかなって・・・・・
例えば、色弱色盲の人の世界はやっばり見てる世界は違うのではないか?
(色覚検査で実際にみんなと違う文字が見えたりしたので・・・)
知ろうとする努力は必要だし、共感力も必要だろうとは思う・・・
対話等によって探ることはできるかと思うけど・・・
それも相手を信頼してるかとか・・・
そこら辺も影響してるかと思いますね。
 
>>色覚検査って、どうやって作ってる…?
>>「こういう人は、こう見える」というのがある程度わかっている
>>色って言葉で表現できないですよね
>>たしかに、、
>>「リンゴのような色」といっても、皆がリンゴを同じように見ているかわからないし、
>>色を見るって、特に身体に刺激を感じる訳ではないし、、
>>
ー--
 
同じように見えているようで実際は見えてないことが多い
→動物の絵を書くとわかる
また、人は物事を見るのに感情が入る
客観的に見るのはかなり困難
人に対してどの程度わかりあえるのか?
わかりあえている気がしているだけで実際は本当にわかりあえるとかはないのかも
ただ表面的にわかりあえればとりあえず困らない
嫌われなければいい、ぐらいでちょうどいいのかも
>>違うものを描いてしまう
⇒自分の枠でとらえてしまうから
 
>>そう考えると、組織で活動するってめちゃくちゃ高度なことなのですね
>>全然完璧じゃないけどね(笑)
 
ー--
 
どれくらい同じものを見たり、聞いたり
⇒まったく同じものを見て、聞いて、していないと言えるのではないか。
⇒同じものを見ても違う捉え方をする
例えて言えるもの)
・神が与えたもっとも偉大なギフトは何か、それは「Free will(自由意志)」(キリスト教の話)
 神は人間を操り人形にしなかった(お世話になった神父さんの表現)
が、しかし、
理解ということばについていえば、
⇒本当は、完全に理解することも可能なのではないか
と、思う。
理解は、時間をかけて理性で解釈することができるから。
思うに、
いまのウクライナ問題でも、
・理解しようとしない
・理解させないように情報を提供しない
なぜなら自分に都合のいい方向にもっていきたいから
という、
理解しようという前提が欠けているからであって、
すべての人に同じ情報を与えて、
時間をどれだけかけてもいい、
という状況があれば、
共感はできなくても理解はできるのではないかと思う。
 
(余談)
ロシアの武力行使は、全否定したい。
個人の解釈と理解としても、政治的価値観からしても。
でも、
ロシア専門家が口をそろえて、
「プーチンの意図はわからない」
というのは、ウソというかそんなはずはないだろうと思う。
ロシアにも、プーチンにも、自国を守るという主張がある。
でもそれは、
自国を守る=他国に損害をもたらす
になる場合もある。
こちらと相手という構図をつくって有利な状況や利益に奪い合いになるから、
互いに相容れない主張となる。
よって、
ロシアにはロシアの自国の安全保障があるから、ということを前提に話すと、
いわゆるこちら側の不条理な事実さえもさらけ出さないといけない。
それはできない。
つまり、公正な情報を提供して検討し、理解しあう、なんて状況にはそもそもならない。
しない。
理解しあえるはずだけど、
理解しあおうと、そもそもしていないのが、リアルな世界だと思う。
ロシアの駐日大使が、日本のメディアの質問に対し、
「国際社会から制裁を受けますが、、、」
と問われて、
あなたのいう「国際社会」ってなんのことですか?
捉え方や意見の違う少数派は国際社会に含まれないのですか?
と述べていて、
ああいえばこういう状態であることはあるでしょうが、
少し考えさせられる話でした。
 
ー--
 
ユクスキュル
>環境は、生物ごとに自分の知覚を中心に感じるもの=主体的なものであると考えた。
すべての生物に等しく存在するものが環境ではなく、個々の生物が主体的に捉え構築した独自の世界としての環境が無数にある、と考えた。
例えば,
人間の知覚>視覚で見える世界,
犬の知覚>嗅覚で見える世界
 
>>学校の先生として、「押し付け」や「決めつけ」になってしまわないか、難しい問題ですよね
>>「みんな仲良くしなさい」といわれて、子供たちは「は~い」というけれど…
>>「あの子にはあの子の事情があったかもしれない」
「あの子には違う景色が見えているかもしれない」
と考えられるのって何歳くらいからなんでしょうか。
低学年の子にそれができるとは思えないし…
>>発達段階の途中でそれができるようになりますよね
>>改めて考えてみると、他者理解ってめちゃくちゃ高度なことですね…
 
ー--
 
》どのくらい同じものを見ているか?
厳密には同じものなどない。よって同じものなど見ていない。
 
》他者理解
自己理解すらも難しい現人類にとって
他者理解など厳密には遠い夢である。
だけれど、それでも人は人のことを理解しようとするし、また同じものをみて、抱こうとする。
それが真実かどうかよりも、
そう考えることのできる人、
人に寄り添い、人を知ろうとすることを諦めない人、
それは十分に人間らしいと思う。
真実よりもその姿勢こそが大切なことではないだろうか?
 
ー--
 
【ファシリも考えてみた!】
☆どれくらい同じものを見たり、聞いたり、感じたりするだろうか?
〇色の感じ方は人によって異なる
〇本当に同じものを見ている?
・見るとは、網膜に当たった電磁波が脳に伝えられて処理されている
・聞くとは、鼓膜に当たった振動が脳に伝えられて処理されている
・味わいも、感触(刺激、痛み)も、においも同じ
 
そう考えてみると、、
〇精度が異なる可能性はある
・感覚をキャッチする細胞の個数
・神経の伝達速度など
の個体差によって差異が引き起こされる可能性
 
例えば、、
初めは飲めなかった日本酒やビールが後から美味いと感じる現象
⇒初めてお酒を飲む大学生と、熟練の飲兵衛ではきっと感じているものが違う気がする
 
モスキート音
以前は夜近所のスーパーの近くに行くと、キンキン聞こえていた…
最近はどうかな。(また行ってみよう)
相手のことを100%理解するのはムリ。
また本当の意味で「相手の立場に立つ」というのも無理なのではないか。
ただし、相手の心情を推測しようと努力はできる。
考えて思い至ることはできる。
 

ファシリテーターより

今回もありがとうございました!
ファシリテーターの木原です。
 
今回のテーマ「環世界 part2」は、
以前、第45回にて実施したテーマの第2弾となります。
ユクスキュルが提唱した「環世界」という概念に触れつつ、
「人はどこまで理解しあえるか?」
という視点で考え話し合っていきました。
以前は大手個別塾の教室にて開催しておりましたが、
オンラインで色々な方にご参加いただいている今だからこそ、
コロナ禍で人と人とのつながりについて考えさせられる今だからこそ、
改めて実施してみる価値があったのではないかと思っております。
またロシアがウクライナへ侵攻したこともあり、結果的に「相手の立場に立って考える」ことについても深く考えさせられるタイミングとも重なったと思います。
今回の探究から、
「相手の立場で考えること」
「相手を理解すること」
は簡単なことではないということを改めて考えさせられました。
一般論としてではなく、人間の発達段階として考えてみても、高度なことだったのだなと気づきました。「自分の事だって理解できてないのに」という意見も大変興味深かったです。一方で、だからこそ一生懸命相手のことを考える、理解しようと努力する姿勢が大事なのだということも学びました。
また昨今ニュースになっているウクライナ情勢について、他の地域で起きている様々な問題についてもそうですが、それぞれ互いに立場や言い分があるというのが難しいところなのですよね。どちらか一方が正義で、どちらか一方が悪という単純な話ではなく、双方にそれぞれの正義がある。それぞれに経験してきた歴史や文化があって、互いそれに基づいて現在の選択・行動をしている。一見すると「あいつ何やってるんだ…?」と思えるようなことも、腰を据えて相手を取り巻く状況をテーブルに並べて考えてみると、なるほど納得できてしまうことがある。
こういう問題に対して、本当の意味で相手の立場に立って(相手の環世界を獲得して)考えるのはまだまだ難しそうですが、分かり合うための努力を続けていかなければならないなと思います。
 
ご参加くださった皆様、ありがとうございました!
またやりましょう。次回は
第151回「卒業」
を予定しています。
引き続き、楽しくて学びになる探究の場を実施してまいりますので、お楽しみに!
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