第154回「平和について考える」

第154回 探究型ワークショップ実施!
テーマは「平和について考える」です!
 
 

本日の問い

今は「平和」だと言えるだろうか。
またそれはなぜだろう。
もし「平和」とは言えないなら、その原因は何だろう?
また「平和」は実現可能だろうか?
 

探究

インプットセッション

>>カナダいいなあ。。。
>>現代でホットウォーがあるなんて…
>>ウクライナはずっと他国のモノ→ロシアでチェルノブイリ→現在、という過酷な歴史満載ですよね。。。
>>あくまで”そういう考えもある”ということですよね。>解説資料
>>侵攻されることにトラウマ…っていうのは歴史の先生も言ってました
>>たしかにそうですよね。(現代でこんなに不穏なところもそんなにないですよね)
*実際戦争前もウクライナでは所属イジメなどもあってくずぶっていたりしていたという話も…
*現代において「土地(国土)」を奪う、ってことが、得するとは限らない、という視点もありますよね
*戦争後の国土に価値があるかなあ。。。的な
 
 

グループトーク

ー--
平和とは?
平和とは人それぞれ違うもの
平和とは価値観
>>例えば、家族が元気であること
>>日本では戦争は起きていない、けどある家庭では暴力が行われている
>>日本は平和かもしれないけど、その家の子にとっては平和じゃない
>>なるほど、平和かどうかは、どこに注目するかによって変わってくるわけですね
>>そしてそれは、一人ひとりにとってどうか、を考えることもあると
 
ー--
 
平和ではない
平和の達成は本当に平和なのか。
生き物としてどうなのか
平和でないことが平和な状態?
(完全な平和は、実現された瞬間それは平和とは呼べなくなってしまうのではないだろうか)
 
平和₌1 0.999999999
 和₌自身を活かしながら相手と合わせる 灰色・コントラスト
 同₌自身が何かに染まる        白が黒になる
 侵略→同への支配
 
>>
〖和〗 ワ・オ・やわらぐ・やわらげる・なごむ・なごやか カ(クワ)・あえる
 
1.
おだやか。のどか。ゆるやか。あたたか。はげしくない。
「和気・柔和・温和・緩和・違和」
 
2.
《名・造》互いに気が合う。なかよくする。争わない。
「人の和」
 
>>Omosiro-
 
ー--
 
今は平和ではない。
 
その理由:構造的な暴力は多く、そのうえ世界中で紛争が起きている。そこから降りかかってくる火の粉におびえている人もいる。
消極的平和も積極的平和も現状はほぼ無理に感じる。
差別や貧困は見えないところにも多くあり。
そこまで目を行き届かせる手段がなく、
苦しんでいる人全員が声を上げられるわけでもないから。
 
例えば「武器を捨てる」
⇒宇宙人が攻めてきたらどうするのか?
(対抗できず侵略されたら、平和じゃない)
 
安定を維持するために「暴力」は現状必要
 
>>元和偃武
>>暴力って争いを収める一番簡単な解決手段ですね
>>ポタポタ焼きの知恵袋にそんなのがありました
>>
元和偃武【げんなえんぶ】
偃武は武器をおさめる意で,戦乱が終わり平和になることをいう。
王来自商、至于豊。乃偃武修文。
(王 商自り来たり、豊に至る。乃ち武を偃(ふ)せて文を修む。)」
>>偃武⇒武器を収めて用いないこと。戦争が終わること
>>核抑止論みたいなのだっけか
>>武器を装備する、武器をなくす以外に「武器を置く」という状態もありそうですね
(例えば国際社会において、武器を蔵にしまう、武器を置いて酒を酌み交わす、都はどんな状態だと言えるだろうか)
 
ー--
 
「平和」ではない?
心の平和?
野口英世博士が、第一次世界大戦の中(大正3年)、
彼が知人にあてた手紙が残っています。
今回の欧州大戦争は……
 
世界人類の大禍災にこれあり、
いまさら人生の浅ましさをさとらせ申し候。
日本もついに引きこまれ、
内には民力を捐じ、
外には敵をつくるのやむなきに至るならんかと思われ候……
平和の方法にて同一の目的を達するは、
戦争によれるよりも非常の偉功と思われ候
だれしも「平和」を口にしますが、
野口英世博士からこの語を聞くと、
とくに強い感動を受けるのは、
彼の人格とひたむきな学究の精神によるものでしょう。
 
一人ひとりの心が平和にならなければ、真実の世界平和はないとユネスコ憲章が明言するところです。私達は、外に向って「平和」を叫ぶと共に、自分の心も平和であるように努めましょう。
 
中国の十七世紀の思想の書『菜根譚』は、儒教の思想を中心に道教や禅学を織りこんだ処生哲学書です。その中に、他を責めるときの心得があります。他を批難するとき、とかく昂奮して平静を欠くことを戒めるのです。その一例を口語訳してご紹介いたします。
 
人の悪を責めるのに、ひどく厳しくしてはならない。
その人が受けとって背負うことができる程度にするように考える必要がある。
(前編二三則)
 
叱責する者は、つねに心が平穏である必要を説くのです。
オーバーな叱責は相手にとって過重になるからです。
叱責も度が過ぎると心の武器になります。
 
また同書は、
他に善をすすめるのにその人が必ず実行できるように、
愛情をもってせよ、と説いています。
悪をするからと怒って暴力を振うのは論外です。
『法句経』に「おのれをととのえよ」と説かれる所以です。
 
己こそ己の寄る辺 
己をおきて 
誰に寄るべぞ。
よくととのえし己にこそ 
まこと得難き寄る辺をぞ得ん。
個々人が「心の平和を・・・・・」
それを追求?
 
<<日本国憲法>>
日本国民は、
正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
われらとわれらの子孫のために、
諸国民との協和による成果と、
わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、
政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、
ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、
その権威は国民に由来し、
その権力は国民の代表者がこれを行使し、
その福利は国民がこれを享受する。
これは人類普遍の原理であり、
この憲法は、かかる原理に基くものである。
われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、
人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる
国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、
平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、
自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、
政治道徳の法則は、普遍的なものであり、
この法則に従ふことは、
自国の主権を維持し、
他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、
全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
 
ー--
 
宇宙や地球の安定
平和になるには宇宙や地球のために我々が捧げなければならない
戦争も、コロナも、身近な兄弟喧嘩も高が知れている。全ては宇宙が与えた試練
我々の動きが自然の力にぴたっと合わせられた時、
波長が保たれ、心の安定、身の安定が保たれるのだ。
暴力も、宇宙はきちんと見ている。
まずは宇宙と周波数を合わせることだ。
我々が自然の一部であることを「感じる」ことが求められている気がする。
宇宙は今その空間に存在しているミクロとマクロの世界
 
>>コップの中の嵐???
>>当事者どうしは勢いこんでいる争いやもめごとが、狭い範囲にしか影響を与えないで終わってしまうことのたとえ。
>>内輪もめ。、という意味ですね
>>
「蜂と神さま」蜂はお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土塀(どべい)のなかに、
土塀は町のなかに、
町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに。
さうして、さうして、神さまは、
小ちやな蜂のなかに。
>>金子みすず
>>化学でも、イオンとか考えると安定にむかっているのかな~と思います。
>>宇宙の法則は安定にむかっているといえそうですね。
>>人間が自然の一部とすれば、増えすぎた人類は・・・。とか、
>>自然を乱す人類は・・・。と、粛清されている可能性ありますね(笑)
 
ー--
 
【暴力では何も解決しないは本当か?】
本当。
でも、暴力は数々の事象に(一時的な)決着をつけてきた。
【何故戦争(暴力によるルール無視)がダメか?】
取り戻せないから。
将来を描けなくなるから。
人類の良さ(協力プレイ)ができなくなるから。
 
【今は平和といえるか?】
→過去と比べれば平和といえる(流血沙汰は減っている)
>それは何故か?
→人権主義の流布・技術の進歩
現代は人類史上一番、人命が重い時代
テクノロジーやノウハウが価値があり、
それはホットウォーでない方がよく使えるから。
*敵対的買収的が上手く行かない的な
 
【平和じゃないと定義したら】
貧富の格差は拡大し、
自然は破壊され続け、
プライバシーは失われ続け、
戦火もなくならない。
VUCA(ブーカ≒複雑で先の見えない)世界。
人に不安や葛藤がある状態まで平和じゃないと定義したら
平和は(少なくても現段階の人類には)訪れないだろう。
 
【平和は実現可能か?】
平和の定義:マトリクス(プロトタイプ)は平和。
(天国は平和だが、バリエーション豊かなのは地獄。)
人間らしい状態のまま平和であれるか?
戦争が全人類にとってコスパが悪い手段となり
且つ最終決着ができる暴力以外の装置があれば可能…
かもしれない。
もしくはよき競争がある状態、とか…?
(これは倫理の話)
 
おまけ:デジタルメディスン(えええ?)
 
>>
天国と地獄の長い箸
むかし、ある男が閻魔大王さまに会いに行き、
天国と地獄はどういう世界なのか聞きました。
すると閻魔様は男に、天国のようすと、地獄のようすを、
それぞれ見せてくれました。
まず地獄では、ちょうど食事の時間だったので、
人々はながーい箸をもって、大きななべの前に集まっていました。
この地獄ではながーい箸で食事をしなければならない決まりなのです。
人々はながーい箸で鍋の中のご馳走をとって食べようとするのですが、
あまりながーいので、どうしても自分の口にご馳走がとどきません。
それでみんな、何も食べられずにおなかをすかせ、
やせこけて、他の人の食べ物を横取りしようとして、けんかばかりしていました。
閻魔様は次に天国を見せてくれました。
天国も食事の時間でしたので人々は地獄と同じ、
ながーい箸をもって大きな鍋の前に集まっていました。
天国でも、ながーい箸で食事をしなければならない決まりなのです。
天国の人々は穏やかな顔をして楽しそうにご馳走を食べていました。
ながーい箸でおたがいに仲良く、他の人の口に食べ物を渡しながら、
ご馳走を分け合っているのです。
こうして地獄にいる人々は、自分のことばかり考えているために、
いつまでもけんかをしていてなにも食べられず、
天国の人々はお互いを思いやっているので、
仲よく暮らせるのだと閻魔様が教えてくれました。
 
>>よい話!
>>つい昨日、本で見た小麦の話に似たものを感じます
>>ほほー!
 
ー--
 
学問として平和を探求する学問があるとしても、
国際関係上、普遍的な平和の定義があるわけではないない。
どの国も、どんな状況でも応じられる定義というのはない。
あえて言えば、戦争がない状態。
おそらく国連の枠内でそう定義され、
合理的な理由のない戦争は国際法上の違法とされているはず。
でも一方で戦争を縛る法が存在するということは、
戦争そのものは違法ではないといえる、
ということは「平和=戦争のない状態」は完全には成立しないから、
一時的な平和な状態はつくれても維持は困難なのかもしれない。
もっというと、始まってしまった戦争は、その終わりの定義が難しい。
たとえば朝鮮戦争はあくまで休戦状態。
日露の関係でも平和条約が結ばれていないということは
第二次世界大戦時の解決は済んでいないことになる。
戦争の開始と終わりがあいまいだということは、
戦争のない状態を定義することが難しく、
すなわち平和は実現していないと言えるのではないか。
これが現実かな、と思う。
この現実を把握して、ものごとに向き合わないといけない。
外交も、経済も。
 

ファシリも考えてみた!

 
○今は平和か?
結論:平和ではない
 
平和とは何か。
・戦争がないこと?
・暴力がないこと?
どれも一つの正解ではある。
平和学に定義されるものでいえば
「積極的平和」(あらゆる暴力がない状態)
は共感できるところではある。
自分は「平和」とは人々の心が穏やかであることじゃないかと思う。
 
仏教的な視点を引用するならば、
人が心をクリアにして、
不安や恐れに支配されることなく生きていける状態ではないかと思う。
(仏教では、自分の感情や考えること全てに気づきを入れ、クリアにしていくマインドフルネスの修行がある)
原因は、内的要因もあるし、外的要因もある。
例えば添加物ばかり取っていたら、
体調が悪くなり、自分の心をゆっくり見つめることはできない。
 
少し神秘的な話になってしまうかもしれないが、
サイエンスの視点を交えるなら量子力学の話。
「人の意識が現実を作る」という話。
量子論の実験で、
・二重スリット実験(人の“観測”があるかないかによって結果が変わる)
・遅延選択実験(人が選択すると、それによって結果が変わる)
というもののがある。
(2つ目は、確かそういう話だったと思います)
あまり根拠のない妄想をするわけにもいかないが、
科学と哲学が交わる部分は、
それなりに考える価値のあることなのではないだろうか。
 
話しを戻して、
「人が幸せに生きる」
はあらゆる学問、研究が考えるところだろう。
そこには、
・国際関係
・環境問題
・・・
 
等々様々な現実世界の事象が対象としているが、
「平和」を実現するための手段として、
戦争撲滅、暴力の撲滅、などをやっていくとして、
「平和」が実現されたかどうかは、人の心がどうかということを考えるのが理想的ではなかろうか。
戦争がない
環境問題も解決
栄養バランスも全地球的にとれている
 
・・・
 
でも、心の中は不安や恐れでいっぱい。
これでは平和とは言えないと思う。
(仏教では、喜怒哀楽全て)
に支配されているのはあまり良い状態とは考えない。
 
「因縁」は、心の中の状態に「因」りて、ご「縁」(現実世界のこと)を得ること
現代の教育や価値観の中で、
体調管理の方法は教わるが、心のメンテナンスは殆どしない。
不安や恐れがあると、
自分を傷つけ、人を傷つけてしまうかもしれない。
再現のない欲が生じてくるかもしれない。
そしたらまた、争いが生まれるかもしれない。
 
ということで、
平和学の定義的にも、仏教の哲学的にも、
まだまだ平和ではないのではないかなと思う。
 
○平和でない原因は何か
・人には心と感情、エゴがあるから
・生きていて、悲しくもなるし、怒りも湧くし、まだまだ心穏やかではいられない
(人が多いと思われる)から
 
○平和は実現可能か?
理論上は可能。
でも、人が人でなくならないと無理なのではないかと思う。
(DIO様の逆バージョン?(笑) 人類史上唯一それを成し遂げたのはお釈迦様なのではなかろうか)
平和を実現するために、
平和学で研究されること、
皆さんがおっしゃること、
には概ね賛成。
加えて、人間一人ひとりの修養が必要だと思う。
 
ちなみに、、
「消極的平和」は「平」ではあるけど「和」ではないかなぁ、と思う。
しかしこの定義にもにも見るべき点がある。
それは
「理想ではないが、何とかギリギリ目指せるゴール」
ということ。またシンプルで分かりやすい。
しかしまあ、もしある瞬間奇跡的に10秒くらい世界が消極的平和になる瞬間が訪れる、こともあるのかもしれないが、このファーストステップすら相当にハードルの高いことだなと思う。
 
【ファシリテーターより】
今回もありがとうございました!
ファシリテータ―の木原です。
 
今回は久々に社会情勢の基づくテーマとして「平和」をキーワードに考えてみました。毎日ニュースを見ていれば、当然気になるのはウクライナ情勢なわけですが、それをそのままテーマとして扱うのか、というのは悩みどころでした。
 
今回のテーマを選んだきっかけは、先日「平和学」の存在を教わったことです。
考えてみれば、ウクライナ情勢以外にも日本には日本を取り巻く情勢があり、今回はインプットセッションに入れませんでしたが、9.11のテロやイラク戦争など、平和でない状況は古今東西無数に存在しています。
 
どう平和を実現していくのか、
そもそも平和とは何なのか
(どういった状態を目指していくべきなのか)
 
これを世界レベル、あるいは個人レベルで考えることには大きな意義があるかなと思いましたので、今回は「平和」という観点からテーマを設定してみることにしました。
 
個人的に、今回の探究の中で「暴力」に関する考察が印象的で学びになりました。「暴力は良くない」と言われます。たしかに人を傷つけることは良いことではないと思いますが、一方で「とりあえず暴力が一時的に事態を解決した事例」というのもあるわけです。そして国際法には戦争のルールがあることなど、暴力は起こりうるものとしてそのルールや手続きが決められていることが、現段階での現状を明らかに物語っていると感じます。
 
「平和とは何か」は、まさに正解のない問いで、難しいなと思います。どれだけやっても結論の出る話ではないかと思いますので、またそのうち、社会情勢を題材に皆で議論する場を作っていければと思います。
 
ご参加くださった皆様、ありがとうございました。
またやりましょう。
 
次回は、
4月8日(金)19:30~21:00
第155回「面白いアニメとは?(面白さの探究)」
を予定しています。
 
引き続き、楽しくて学びになる探究の場を実施してまいりますのでお楽しみに!